L o s t T h r e a d 私はそれを眺めて、ゆったりと笑い返すのが好きだった。 9歳年上の兄が家出して、4ヶ月になる。兄は、中学校の教師をしていた。眼はとっても細いけれど、 品のいい顔つきをしていた兄は、それに見合った知性と教養、そして優しさを持っていた。 私の母校でもある兄の勤務先に、私は3回程顔を出した事がある。 生徒は皆嘘のように兄に懐いていた。無論兄に反発して、進路指導に来なかったり、 ドアを蹴破ったりする生徒も居るらしかったが、 「そうした感情の根本にある懊悩と俺は話さなきゃいけない、行動は単純だけどその根本は決して単純じゃないんだよ、だから俺が傷つく事でも、ましてや茜が気を揉む事でもないんだよ」、だとか、高校生の時の私にはよくわかんない事言って、 結局そういう生徒たちも、卒業時には兄を慕って兄の胸で泣いたらしい。 私は丁寧に兄をなぞって、短大の卒業証書を眺めた。山手線は私を順調に高田馬場へと近づける。平日の午後、乗客はまばら。兄の、今の勤務先は、新宿の、ごてごてしたネオンに溶けたお店。 兄が家を出る一週間ぐらい前、兄は中学校へ辞表を出していた。卒業生を送り終えて直ぐの、3月中旬。 その晩、母親が兄をぶった。 内定祝いの飲み会から帰宅したばかりだった私は、母のかなきり声に、面食らった。這うように、茶の間へ。 「どうしてッ!どうして、そんな事が楽しいのッ」 父は何も言わずにその様子を眺めていた。私はその横でアって声をあげた。 視界にはいった兄の眼は、糸くずではなくなっていた。 丹念に引かれたアイライナーとマスカラで美しく施された、丸みのある印象的な眼が、私を見ていたのだ。 足が石のように冷えたのを覚えている。 兄の唇はぽったりと桃色に色づき、肩では、エクステンションであろう清楚なロングが揺れていた。 ・・・・・あんまりはっきり覚えていないけど、兄は、一般的に想像される・・・・・オカマ・・・・、のイメージとかけ離れたシックなタイとスカートを纏って、苦しそうに息をしていた・・・・。 ハっとすると、車内アナウンスは馬場駅到着を告げていた。いそいそと下車し、兄のアパートを目指した。 後で、父に聞いた話では、あの、辞表を出す1年以上前から、 兄は父に自らの性癖を告げていたそうだ。無論母にも。 反対に反対を続けて、とうとうあの日がやってきてしまっていたんだ。 私は、容易に兄のアパートを見つけた。兄の部屋を訪ねる事もなく、アパートの前で時間を過ごした。 103号室が開いて、ゴミ袋を持った女が出て来た。玄関先で男とキスをしているのが見える。女が扉を閉めて、カツカツこちらに向って歩んで、立ち止まった。 「あかね」 女は兄の声で私の名前を呼んだ。 私は「おにいちゃん」と言いたかった。でも、なんだかもう、そんなのは絶対無理だった。 遠かった。その女の胸は豊かなふくらみがあって、私は涙が止まらなかった。 彼女の、絹糸のように伸びた睫が、天を仰いでいる。私は涙が止まらなかった。 女になるだとかオカマだとか、どうでもよかった。 ただお兄ちゃんがずっと続くものだと想っていたので、哀しかったんだ。 |